「貴婦人」  電子工学科4年  石村 大樹

 

目   次

第22回読書感想文コンクール入賞作品

 

第1位 『異邦人』を読んで ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 情報通信工学科5年 天野 未来

第2位 「生きること」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 情報通信工学科2年 吉野  彩

第2位 『ナイフ』を読んで ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 情報通信工学科2年 秋山 祥慧

第3位 目に見えない幸せ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 情報工学科2年   大石  舞

第3位 本当に美しい心とは・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 情報通信工学科2年 東  育誠

第3位  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 電子制御工学科2年 冨原 優希

編集後記

 

『異邦人』を読んで

 

情報通信工学科5年 天野 未来

 

 『異邦人』この言葉の響きに、私は冷たさを感じる。自分とはわかり合えない存在、いやわかり合おうとも思わない存在。人はその存在を自分達の中に認めようとはしない。

 裁判官や傍聴人、ムルソーの証言を聴いた全員の目に、彼は『異邦人』として映った。彼らにとって、母親の葬儀で泣かず、その翌日恋人と喜劇映画を観に行くムルソーは、異常な存在だった。母親の葬儀で涙を流し、その後しばらくの間悲しみに沈んでいることが、人のとるべき当然の行為であり常識であった。その常識に当てはまらない者は、人間が本来持っているはずの感情や愛情を持たない、『異邦人』なのだ。

 しかし、本当にそうだろうか。

 私は、この話を読んで、人には誰にでもムルソーのような一面があるのではないかと感じた。私達の周りには、一般的な常識や道徳があふれている。そういった周りから入ってくる情報の影響を受けながら、人は自分の中に自分なりの常識や道徳を創っていくものだと思う。そして、その常識や道徳にあった自分でいるために、無意識のうちに嘘をついているのかもしれない。知らず知らずのうちに、周囲だけでなく、自分自身にも嘘をついているのかもしれない。

 ムルソーは母親を愛していたし、母親が生きていてくれることを望んでいた。ただ彼は、自分の中に、社会の常識や道徳を持っていなかった。彼にとって意味のあるものはその時の気分だけだった。だから、彼には嘘をつく必要はなかったのだ。ムルソーは、常に自分自身に正直であればよかった。

 私は、ムルソーのような生き方を最初かっこいいと思った。周囲の眼を気にして、自分を飾ったり、自分自身を安心させるために、嘘をついたりすることをせずに生きていくにはとても難しいことだ。自分の中の常識や道徳と照らし合わせて、自分自身を良く思い、満足するために、感じている以上のこと、あるいは感じてもいないことを言ったり、したりするのは、人間のずるい部分だと思う。ムルソーにはそういうずるさがない。私は、その潔さをかっこいいと感じたのだ。

 でも、それは、とても怖いことだということに気がついた。

 ムルソーのお母さんは本当は養老院に行きたくなかっただろうし、恋人のマリィも「愛していない。」と言われる度につらい思いをしただろうと思う。ムルソーが自分に正直に生きることで傷つく人もいたのだ。

 私の中にもムルソーはいる。妙に冷めていたり、無感動だったりする瞬間がある。ムルソーは人生が無意味だと考えていたが、そうかもしれないとも思う。太陽が酷く暑くまぶしかったら、自分が何をしているかわからなくなるかもしれない。

 きっと、ムルソーを受け入れなかった人達の心の中にも、ムルソーはいたのだと思う。そして、彼ら自身、そのことに気付いていて、そういう自分の一面を恐ろしく感じていたのではないかと思う。自分の中のムルソーが顔を出す度、自分を冷たく非常な人間だと思い、恐れと罪悪感を抱いていたのではないだろうか。だからこそ、ムルソーのような人間が自分達の社会に存在していることを脅威に感じ、排除しようとしたのではないか。

 周囲に、自分自身に、見栄をはって演技する。そういったずるさも必要なのだと思う。そういった部分も含めて、人間なのだ。ムルソーにそういったずるさが欠けていたために、彼は自分の好きな人達をも傷つけてしまったのだ。そして、社会の中での自分の存在も否定されてしまった。

 また、ムルソーには、大切な人も、ものもなかった。神も信じていなかった。そして人生に意味を見出し、神を信じる人達からの孤立をも願っていた。

 だが、本当に人生は意味のないものだろうか。正直に言えば、私は分からないと答えるしかない。しかし、もし人生を無意味と考えるなら、きっと生きてはいけないだろう。大切に思うもの、信じられるもの。そういうものがない限り、生きていくことはできないだろう。人生に何らかの意味を見出し、自分の中に指針を持つことが、生きていく上で力になっていくのだ。

 私は『異邦人』ムルソーに好感を持つ。彼は普段親切で、穏やかに日々を送っていた。そして何より、何にも媚びることのない正直さに、私は強い魅力を感じる。けれど、その正直さが、社会の中で色々な人達と接し、生きていく時、人を傷つけ、様々な障壁を作ってしまうということも確かなのだ。社会の一員として生きていく以上、社会の常識や道徳を自分の中に持つことが必要なのだ。

 私は、人生は意義があるものと信じて生きていきたい。そうすることが、人生を本当に意義あるものにすると思うから。

 

『異邦人』 アルベール・カミュ著 窪田哲作訳 新潮社

 

「生きること」

 

          情報通信工学科2年 吉野 彩

 

中学の頃にひどい「いじめ」を受け、登校拒否になり、ついには自殺未遂にまで追い込まれた、大平さんのそれまでの心境と、それから後の生きざまが、私達に生きることを考えさせてくれます。人間とはなんと弱く、そして強い生き物なのでしょうか。そして、生きることはなんとつらく、そして素晴らしいことなのでしょうか。私はこの本を読み始めて、30分も経たないうちに涙があふれて止まらなくなりました。自分の心の奥の傷に触れてしまったような気がして、とても悲しくなったのです。忘れかけていたあの頃の自分の姿が、まざまざと思い出され、作者の悔しさや悲しみとピッタリ重なり合って、再び私に襲いかかってくるようでした。

私が一番つらかった時期は小学校の六年生になったばかりの時でした。仲のよかったある一人の子と喧嘩をしたのです。その子は、私のクラスのリーダー的な存在でした。始めのうちはその子が私を無視してくるだけだったのですが、だんだんとまわりの友達も私のことを無視してくるようになったのです。そして気付けば私はひとりぼっちになっていました。つまり「いじめ」にあってしまっていたのです。しかし私は泣き虫な性格だったため、言いたいことも言えずに、何も抵抗できなくて、誰を信用して相談すればいいのかも分からない状態でした。一人違う世界に追いやられているような孤独感で、思い込みが激しくなり、自分がとてもみじめになりました。「いじめ」を受ける側は、人間性そのものを否定され、周りの人からは気付かれないところで、とても恐ろしい判断をすることがあります。大平さんのように自殺をはかったり、今度は「いじめ」をする側にまわったりするのです。私自身、一時期は学校の帰り道、一人でいろんな事を考えていました。親に相談する事はとても情けないと思い、できませんでした。帰る途中、ずっと泣きはらした目でも、玄関の前ではいつもの笑顔をつくりました。死んでしまいたいと思った事もありましたが、私には怖くてできませんでした。きっとこの本の作者の割腹は、自分一人ではどうすることもできない空しさと、裏切ったクラスメイトに対する怒りの表れだと思いました。

 学校の中で「いじめ」を受けて、悩んで、孤独を感じて「死」まで考えようとするのは、大人社会では理解されないかもしれません。けれど、まだ幼い子供にとって、あの教室内の世界で「いじめ」を受けることは、言いようのない苦痛であり、頭の中が毎日そのことでいっぱいになるのです。物事を冷静に考えることも出来にくくなります。しかし、やはりいつかは自分が乗り越えて、強く生きられる自分に変わらなければならない部分もあるのです。私がつらい状況から抜け出せたのは、なんといっても、当時所属していたミニバスケットボールクラブのおかげです。一日の中で唯一の楽しみがバスケットをすることでした。チームは決して強くはなかったですが、そこにいた仲間は、本当に最高でした。私にはこのチームでの活動があったからこそ、自分の存在を自分でしっかりと感じることができ始めたのだと思います。そして、自分の居場所を見つけることで、強くなることができました。人間にとってひとりぼっちであると感じることほど、耐え難いことはありません。実際に、自分の居場所、心の拠り所を失ってしまったら・・・それは、何物にも勝る苦痛です。

作者も、自殺未遂以後、非行に非行を重ねながら、ひたすら自分の居場所をどこかに求めていたのでしょう。そうして、私と同じように、自分の存在価値を自分で認めることができた時、大きな自信と目標が生まれてきたのです。

 現在、大平さんは弁護士として個々の弁護活動に励むかたわら、自らの体験を明らかにすることにより、多くの青少年を救おうと講演活動や、アドバイザーとしての執筆活動にも時間を費やしています。いくら立ち直ったとはいえ、あまりにも悲惨な過去の体験を、世に明かすことには大きな抵抗があったに違いありません。敢えて、それを成した大平さんの深い思いが、私にもひしひしと伝わってきます。

 この本は、様々な形で私に、「生きること」を考えさせてくれました。思うようにならない焦りやいら立ちは、往々にして外に向けられがちですが、実際は自分が変われば周りの環境も自然と変わり、全ては自分次第だと感じます。そして「いじめ」は他人の人生を狂わす大きな問題です。一人一人が前向きに生きて、他人の心も理解できる優しさと勇気を忘れないこと、そして何よりも自分の人生を諦めないことが大切だと思います。

 

『だから、あなたも生きぬいて』 大平 光代著 講談社

 

『ナイフ』を読んで

 

情報通信工学科2年 秋山 祥慧

 

 私はナイフを持っている。

 これで息子を守ってやる・・・。

 この本は現代のいじめがリアルに描かれた、被害者の少年の父親が主人公の話である。普通なら、いじめられている本人やいじめている本人が主人公になり、その主人公の心情がつづられているが、この本は父親が主人公で、今までとは違った視点で心情を知ることができる。

 息子の真司は学校でいじめにあっていた。何も言ってこないが、明らかに様子のおかしい真司に母親は、もしかしたらいじめられているのでは、と不安を募らせる。父親は、まさか自分の息子が、と不安に思いながらも、いじめを信じなかった。

 だがある日、父親は見てしまったのである。表紙が引きちぎられ、落書きだらけの息子の教科書を。

 もし私が父親だったら、すぐにでも学校に言いつけると思った。しかし、この父親は、「親が首を突っ込むっていうのは、屈辱なんだ。恥ずかしくてたまらないから・・・泣き言なんか言いたくないし、自分の負けているところを家族には見られたくないんだ」と言っていた。

 たしかにそうだ。もし私が真司の立場なら、いじめの事実を絶対言わなかったと思う。自分の親を悲しませるのは嫌だし、プライドが許さない。最初は息子の気持ちをとてもよく理解しているすごい父親だなと思ったけど、この本をどんどん読んでいくうちに考え方が変わっていった。

 私はナイフを持っている。

 背広の内ポケットに、それはいつも入っている。

 それが父親の口癖だった。何か恐ろしい場面に出くわしたときは、そのナイフを勇気に代えていた。父親は真司が産まれたとき「生きることに絶望するような悲しみや苦しみには、決して出会わないように。」と、新生児室の窓にへばりつき、祈った。ただそれだけを望んだのに、今息子は生きることに絶望しようとしている。そんな息子を守れない自分が情けなくて・・・。

 父親の息子への思いが切なかった。父親は真司の気持ちを痛いくらいわかっている。いじめについて触れられたくない真司。いじめから守ってやりたいけど何もできない父親。このとき私の中で、父親の人物像が変わった。息子の気持ちのわかるすごい父親から、ずるい父親に。結局は、自分が弱くて息子を守る勇気がなかったから、あんなことを言ったのだと思った。ナイフを持つことでしか強くなれない父親なのだと思った。

 最後、父親が息子にナイフをあげようとするシーンがあったが、息子はこのナイフを受け取らなかった。真司はナイフなんかなくても生きていく強い心を持った少年だった。そのまっすぐで強い心は、父親と母親の愛情をたっぷり受けた証だと思った。

 今も昔もいじめはある。でも、最近のいじめは陰湿で自殺にまで追い込むほどだ。また、私と同世代の人が自分の親を殺すという殺人事件までおきている。自分を産んで育ててくれている親を、そんな簡単に殺すことができるのか・・・。とても考えられない事件だ。

 私は「愛情不足」がその原因の一つにあると思う。私はこの夏休み、学童保育といって小学校の低学年の子を預かっているところでアルバイトをしていた。そこに来る子は、片親だけだったり、両親が共働きで家に居なかったりする子がほとんどだ。みんなで遊んでいても、自分の思い通りにならないとすぐ怒ったり、急に暴れだしたり、平気で「死ね。」や「殺すぞ。」などと言ってくる子もいる。最初は驚いて戸惑ってしまったが、学童保育の先生の話を聞いていると、「愛情不足」が原因だと知った。小さい頃から親と接する時間が少ないと、どうしても愛情不足になってしまい、それがその子の性格や生活態度に現れてくるそうだ。最近は両親が共働きの家庭が多くなっている。それが悪いことだとは思わないし、私も将来は子育てをしながら自分のやりたい仕事もしたいと思う。大切なのは時間ではなく、愛情のかけ方だ。やって駄目なことをしたときはちゃんと叱ったり、いいことをしたときはいっぱい褒めたり、抱きしめて喜んだり、どれも愛情がないとできないことだ。

 私自身を振り返ってみると、改めて親の愛情を感じることがたくさんあることに気付いた。また、周りの友達にも恵まれていると思った。

 私はまだ親に育ててもらっている子供だが、三年後には二十歳になり、社会人になる。あと三年で立派な大人になる自信はないが、これから自分を見直し、少しずつでも努力していきたいと思う。この本の主人公の父親みたいに、弱くても愛情があって、本当に大切なものを守れる大人になりたい。

 

『ナイフ』 重松 清著 新潮社

 

目に見えない幸せ

 

情報工学科2年 大石 舞

 

 私はある時テレビで、「黒を知らなければ、白の白さはわからない」という言葉を耳にした。不幸を体験した人だけが、本当の幸せに気付けるのだと言う。「あしながおじさん」を読んで、この主人公は初めて、黒の中に白を見出せたのだと思った。

 主人公であるジューディーは私と同じ年頃だが、その歳までずっと、孤児院で暮らしている。自分とは全く境遇の違う話だが、だからこそ自分の生活を省みる場面がいくつもあった。

 女嫌いの評議員が、ジューディーの作文を気に入り、大学に入れてあげるところからこの物語は始まる。やっと孤児院から出られるのだから、彼女にとってこんなラッキーな事は無いだろう。だがこれは単なる偶然ではなく、ジューディーのこれまでの行いが良かったからだと私は思う。私も頑張った時、良い事が起こった経験があるからである。

 しかしジューディーは長い孤児院生活のせいで、年頃の女の子同士のお喋りについて行けず、自分の無知さを思い知る事になる。またそれと同時に、世界の素晴らしさにも気付く。こんなちっぽけな事で、例えば、友達とバスケットボールの練習をする事や、週に二度のアイスクリームなんて、彼女からしたらとても幸福な事なのだ。しかし私も、まだまだ無知である。社会については知らない事だらけだ。

 去年の冬、私は初めてアルバイトというものを経験した。決して楽ではなかったが、自分で働いてお金を頂くという事は、なんて有難い事なのだろうと思った。また、いつも働いてくれている両親に対して、感謝の気持ちでいっぱいになった。私は初めて貰ったお給料を、そのまま両親にプレゼントする事にした。その時の喜んでくれた顔を、今でもよく覚えている。ジューディーの様に、新しい世界を知って初めて得るものも、沢山あるのだと分かった。

 そんな、毎日が発見だらけのジューディーは、その興奮を唯一身内のような存在である、ジョン・スミス(あしながおじさん)に手紙で伝え続けるのだが、返事が返ってくる事は絶対にない。しかし、ジューディーが病気で寝込んでしまった時、初めてあしながおじさんは、直筆のカードを送ってくれる。彼女はそこでやっと、顔も知らないあしながおじさんの人間味に触れ、声をたてて泣くのだ。この気持ちは、私にも解る気がする。

 つい先日の事だった。私がテストの点が悪くて、とても落ち込んでいた時、仲の良い先生が励ましのメールを送ってくれた。その不器用だけど温かい言葉に、どんなに元気付けられただろうか。人は一人で生きている訳はない。そばには必ず、自分を想ってくれている人がいる事を、忘れてはいけないと思った。

 この本を読み終えて、周りを見渡してみると、私が今まで見えていなかった、たくさんの幸せがそこにはあった。こうして普通に生活している事こそが、何より幸せな事だったのだ。私はそうした、「白の白さ」を少しだけ理解することができた。だからこれからは、この「白」を見失わないように、日々、小さな幸せにも感謝したいと思う。そして、ジューディーのように、真っ直ぐ、真面目に生きて行きたい。

 そうすればいつか私にも、「あしながおじさん」のような、素敵な人が現れるかもしれないのだから。

 

『あしながおじさん』 J.ウェブスター著 角川書店

 

本当に美しい心とは・・・

 

情報通信工学科2年 東 育誠

 

 十一年前に起きた猟奇殺人事件「神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇事件)」を覚えているでしょうか?この本はその事件を意識して書かれています。酒鬼薔薇事件は社会に強い衝撃を与えた事件であったため、この本以外にも多くの本が出版されました。しかし、この本がその他多くの本と違うところは、殺人犯とされる少年にスポットライトをあて、いわゆる社会正義が過剰に振りかざされ、犯人やその親を糾弾するようなものではないということです。もちろん、罪の重さに関する言及はありますが、それは外野が勝手に騒ぐといったものではなく、当事者の一人となってしまった人間の肉声として語られているのです。

 「それが最悪の行いでも、誰かがわかってやる必要があるのではないか。」殺人犯である少年の兄、そしてこの本の主人公はそう考えてきました。「なぜ弟があんなことをやったのか、その理由を探そう。追い込まれたにしろ、自分から突き進んだにしろ、あの状況にカズシを向かわせる何かがあったはずだ。」

 人を殺すことは簡単には理解できないだろう。でも理解しようという気持ちをなくしたらダメだと思った。最低の人間だって、誰かが寄り添ってあげてもいいはずだ。

 僕はいつも悲しいニュースを見るたびに考えていました。人は誰かを責めないと生きていけない生き物なのだろうな、と。

 殺人を犯そうとも、お金を盗もうとも、その人が人であるということは変わらないのに、人々は何も考えずに彼らを責めます。酒鬼薔薇事件のときもそうでした。殺人を犯した犯人だけではなく、家族までもが過剰に責めたてられました。明らかに人権を侵害した内容の雑誌、「お前らが死ね」そんな内容が書きつらねられている手紙、全く関係のない他の人に何が分かるのでしょうか?被害者の家族に追悼の言葉を送るのではなく、犯人の家族に暴言を吐くのです。それは本当に正しいことでしょうか?僕の目にはただ自分の向けようのないストレスを吐きだす為に、それを正当化するために犯人、そしてその家族を責めているようにしか思えないのです。

 今年の六月にあった秋葉原通り魔事件では、傷ついた人々を助けたりせず、その様子をカメラにおさめていた人々がいました。それは本当にモラルのある行為なのでしょうか?ただおもしろがっているだけではないのでしょうか?

 僕にとって本当に恐ろしいものは、殺人犯ではなく、こういった何か大きな事件があるたびにおもしろがる醜い人々の心です。そういった人々が間違った正義を振りかざし、自分を正当化し、誰に間違いを正されることもなく生きていくのです。正義とは一体何でしょうか?事件をおもしろがったからといってもその人々は人を殺すことはまずないでしょう。

しかし、このような事件が起こるたびに浮き彫りにされる人々の醜い心は確実に現代社会を蝕んでいくと考えます。

 僕は、この本の主人公である少年から、本当に正しいことと優しさを学びました。間違いのない世界なんてありません。だからこそ、その間違いを正せるのは、本当に心からその人の側に寄り添ってあげられた人だと思います。傷つくことが怖いから、他人を傷つけていいわけがありません。どんなにひどい行いをした人だって、むやみに傷つく必要はないのです。互いが寄り添い、助け合い、傷つけあっても許し合うことができるなら、きっと僕達は本当の強さを手に入れることができるのだと信じて、僕はこれからの人生を歩んでいこうと思います。

 

『うつくしい子ども』 石田衣良著 文芸春秋

 

 

電子制御工学科2年 冨原 優希

 

主人公の愛は、小学校の頃からいじめられていました。中学生になり、まわりは恋の話で盛り上がったりするが自分には恋など無縁のものだと思っていました。

私は小学校の頃からいじめがあるのかとびっくりしました。また、中学生になって新しい学校での新しい生活、なにもかもが新しくなるのに、いじめの連鎖はいつまでたっても続いているんだと思うと悲しくなります。小・中といじめというものが身近になかったので愛の気持ちは想像することしかできません。

愛は次第に学校に行かなくなりました。担任は愛にボランティアに参加してみるように勧めました。ボランティア先は福祉施設で、目の不自由な明に出会いました。まず最初に明の自宅から駅までの道のりを教えました。どこに段差があってどこに交差点がある・・・

教えながら「自分達には、こんなあたり前のことが明には大変なことなんだ。」と愛は思いました。

学校に行っているだけでは、あまり触れ合うことのなかった目の不自由な明との出会いが愛にいろいろなことを考え感じさせていると思いました。高校に居場所を見つけられなくてもこういったボランティアを通して社会で居場所を見つけられればいいと思います。

私も中学三年生の時に授業の一環で福祉施設で一週間過ごしたことがあります。そこでは、目の不自由な人、耳の不自由な人、たくさんの人が支えあって生活していました。みんなその日その日与えられた仕事を一生懸命こなしていました。

私は、それを手伝いながら思ったことは、彼らはとにかくたくさん話しかけてくれます。そして与えられた仕事を一生懸命こなします。それはただ「がんばってる」いう言葉では表現できない思いを感じました。そこでは、目の不自由な人は見えないなりに、指の不自由な人は動かないなりに、たくさんの人の一生懸命を感じた一週間でした。

ある日、二人で昼食を食べているときに愛がトマトの色を見ていいました。「そのトマトおいしそうな色をしているね。」愛は、はっとしました。生まれつき目の見えない明には、トマトの赤も空の青も違いが分からないのです。愛は明に色を教えたいと思いました。

愛が明に何気なく言った一言。もし、その相手が目の不自由な明じゃなかったら、それは自然に交わされて特になんでもない言葉なのかも知れません。

私が愛の立場ならどうやって明に色を教えただろうか。私は目が見えます。トマトの赤も、空の青も、さまざまな色と生活しています。私に色のない生活が想像できないのと同じように明には色のある生活が想像できない、そう考えると相手が想像できない色を教えるのは大変なことだと思います。

愛は色そのものを教えるのではなく、人がその色に感じる気持ちを明に教えようと思いました。トマトの赤は怒ったり興奮する感じ、空の青は優しい気持ち、そうやって明に一生懸命色を教えました。

愛はとても表現力のある子だと思います。気持ちで色を教えるといっても人それぞれ感じ方は違うものです。愛もそのことは十分分かっていると思います。だけどなんとか「明に色を伝えたい。」という愛の優しい気持ちが感じられます。

色を二人で言い合って明は、「僕には恋の色が分かる。」といいました。二人の間での色は「色=感情」だから明は、今の自分の気持ちを色で例えると恋だと思ったんだろうと私は思いました。

この話を通して、人は居場所を無くしたら逃げてもいいんだと思います。誰だって自分に自信を持って生きているわけではありません。だから自分をダメだと思わないで、愛のように自分を必要としてくれる場所が必ずあるから。愛にとって明は大切な存在です。明にとって愛は大切な存在です。今、私のまわりにいてくれる家族や友達を大切にして、私を必要としてくれる人の大切な存在でありたいと思いました。

 

第22回読書感想文コンクール入賞者

編集後記  153編の応募があり、女子学生の活躍が目立つコンクールでした。