「槍ヶ岳」                     「グアム島」

   電子工学科 5年 尾崎 公洋            電子工学科 5年 松田 祐季

 

目 次

 

「大器晩成」と「無用の用」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・図書館長  村上 純一

 

「倉の中の思い出」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一般教科  土屋 紀子

 

デジタル化についての一考・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 情報通信工学科 辻 琢人

 

「金色の石に魅せられて」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・電子工学科 森宗 太一郎

 

指輪物語を知っていますか?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 情報工学科 篠山 学 

 

「大器晩成」と「無用の用」

 

                             図書館長 村上 純一

 

最近,テレビ番組やゲーム機で熟語のクイズが流行している。出題率の高い四文字熟語の1つに,卒業式などで学生へのはなむけの言葉としてよく使われる「大器晩成」がある。卒業時に贈られるのは,「この学校では大成しなかったけれど,次では頑張りなさい」ということでもあるから喜んでもいられないが,この言葉は,古代中国の老子の言葉とされている。老子は,書物としての「老子」を書いた人物であり,司馬遷の「史記」によれば,戦国時代の楚の人,名は耳,字はタン,周の国の図書館の役人というから,架空の人物ではなさそうである。早速,図書館の蔵書検索で探してみると,本校には関係図書が10冊あり,E-Conan 蔵書検索という機能で長岡技術科学大学と42高専の蔵書検索を行うと448冊見つかった。各校に平均して10冊以上あることから,関心の高さが窺える。

「道徳経」とも呼ばれる「老子」は,実在した人物である老タンの著作であるとしても,約2400年前の戦国時代から現代に伝わる過程で散逸したり,後代の学者が注釈,加筆したため原文の正確なことは分らない。世界史の復習となるが,周の国でクーデターが起こり,都が移された紀元前770年から秦の始皇帝が中国を統一する紀元前221年までを春秋・戦国時代と呼ぶ。日本の戦国時代より遙かに長い戦乱のこの時代には,陰陽家,儒家,墨家,法家,名家,道家などの諸子百家の思想が現れた。老子は荘子とともに,老荘思想と呼ぶ道家の思想家であり「無為自然」を説くとされている。先の「史記」が52万字以上の大作であるのに対して,「老子」は約5000字の小品である。第41章に諺として現れる「大器晩成」は,元は,大きな青銅器は製作に時間がかかるという至極もっともな意味であったらしいが,後世に転じて人物に対して使われる言葉となった。

技術者は,自然科学や専門科目を長時間学び,新発明の製品を作ろうと躍起になる。工夫に工夫を重ねて,性能を向上させ,ライバルに打ち勝つ努力を惜しまない。製品が市場に投入されれば,その対価を再投資して,さらに改良を続けなければならない。最初は,大きな夢を抱いて全力で突き進んでいても,いずれは疲れ果ててしまう。壁にぶつかったとき,心の平衡を保ってくれるのは,古人の知恵である。そんなとき「老子」に出会う。

「老子」は難解な書である。どうやら「道(タオ)」を至上原理と説いているらしいが,知識,合理性,利益に価値をおく現代人の感覚では掴みきれない。「老子」は,国家や文明すら否定している。社会的人間としての活動一切を否定する思想は,仏教の「空」に近い。頭で理解しようとしても理解できないのではないかと思う。ある種の瞑想の境地であろうか。しかし,利益追求型の現代人の切実な悩みを「そんなん捨てなはれ」とあっさり切り捨ててくれ,「用の無い物の中に有用なものがあるんですよ」と人を煙に巻くような優しくも小気味よい説得力に魅力は尽きない。座右の書としたい1冊である。

前任の高吉先生から引き継ぎ,この3年間,身のほど知らずにも図書館長を引き受けてきた。小さな成果として,自習室や新書版コーナーなどを整備でき,蔵書数も9万冊に達した。しかし,図書館をよりよくしたいという思いを具体化できなかった点は反省点である。低学年の貸出冊数が大幅に落ち込んだままであるのは残念である。私も,館長卒業に際して上述の意味での「大器晩成」を贈られる身であろうが,「無用の用」であったのだと納得していただきたい。今年10月には,新たに香川高専詫間キャンパス図書館として再出発の予定である。本校図書館の益々の発展を祈りたい。

 

「倉の中の思い出」

 

一般教科 土屋 紀子

 

 私は読書はどちらかと言うと好きな方だが、熱中してしまうタイプなので、本を読み始めるといつも途中でやめられなくなり、他のことができなくなってしまうため、なかなか大変である。しかし、子供の頃から本は私にしばしば力や勇気を与えてくれた大切な友人で、本について聞かれるといつも思い出すのが、子供の頃に親に隠れて読書をした、倉の中での楽しいひとときである。

 私の出身地は静岡県の三島市という所で、富士山がきれいに見える所である。私が生まれた家は、砂糖問屋を経営していた父が商売に失敗してしまい、売らなくてはならない羽目に陥ったため、現在は人手に渡っているが、今から考えてみるとかなり大きな家で、米倉と言われる大きな倉が三つもあった。

 どの倉も、いつも重い戸で閉められていて中は暗かったが、私は「しーん」と静まりかえった倉の中に忍び込むのが好きで、小学校の頃、時々親に隠れてはその三つの倉に入ってよく探検をしたものだ。

三つの倉の内、二つの倉は普段はあまり使用されていないようだったが、残りの一つの倉は商売のため、当時も頻繁に使用されていた。かなり大きな倉で、一階には売り物の大きな砂糖の袋や小麦粉の袋が積み上げられており、二階には先代の使わなくなった物や衣類、本等が山のように収納してあり、なんとなく暖かみのある場所であった。私は時々、親に見つからないようにこっそりと重い倉の戸を開けてはこの倉に侵入し、そっと二階に上がり、二カ所にあった重い戸の付いた窓を開け、窓から差してくる太陽の光の中で夕方暗くなるまで昔の字(大正か昭和初期の文字)で書かれた本を読んだものだ。変な形の字が多く、分かりにくい部分も多かったが、それらの本は、私が生まれる前に亡くなった祖父か伯父かが読んだもので、日本の文学はもとより、世界文学全集まで何でも揃っていた。いろいろあった本の中でも、シェークスピアの「リア王」を真剣に読んでいたのを今でも覚えている。多分、自分が三人姉妹であったから、その物語の中の三人のお姫様に興味をもったのかも知れない。

今考えてみると、倉にあった本は現在でも有名な文学ばかりであったが、多分その本が売られていた時代には、まだ書物が普及していない時代であったから、そのような本しかなかったのかも知れない。書かれている字が昔の字なので、一見難しそうな感じの本ばかりであったが、内容は子供の私でも理解しやすい本ばかりであった。

その後、倉は壊され、家を売る時にそれらの本達もゴミと一緒に捨てられてしまった。現在はその土地は他人の物になっているが、倉で過ごした子供時代は、今でも私の子供時代の楽しい思い出のひとときとなっている。

私は読書にふける等というのは活動的ではないかも知れないとも思う。しかし、本というのは自分が判断に困った時や窮地に陥った時、何か解決のヒントを与えてくれたり、色々な人生の生き方を教えてくれる大切なものだと思っている。人生には色々なことがあり、楽しい時ばかりではない。いらいらしたり落ち込んだり、深刻に物事を考えなくてはならないことも多い。そんな時、いつの日も、密かに私を励ましてくれるのがいろいろな本達なのである

 

デジタル化についての一考

                            

                           情報通信工学科 辻 琢人

 

自分の学生時代は,学生一人に一台パソコンがあるかどうかという感じで,まだパソコンが現在のように普及している状態ではなかった。当時の学生の欲しいものトップ3には,パソコンが入っていて,現在とは隔世の感がある。自分自身も学生の時に,メモリ8MB, HDD160MBCPUクロック周波数33MHzというパソコンを購入して卒業論文を書いた。現在では当たり前のインフラになっているインターネットも学生時代には無く,当時のパソコンマニアが使っていたパソコン通信があった程度である。

 一方,現在学生のほとんどが持っている携帯電話も学生時代には普及していなかったが,1994年に端末をユーザーが購入できるようになり,携帯電話が爆発的に普及するようになった。

 自身の学生時代から十有余年が経過し,パソコンや携帯電話などのデジタル機器が現在当たり前のように身の回りに存在している。そして,それらはインターネットに接続されて,世界中の様々な情報やモノを瞬時に入手できる。気に入った音楽はCDではなくiTunesなどのネット配信で,映画もネットでオンデマンド,友達もネットで探す時代・・・なのかな?

 多くの物がデジタル化され,ネットで手に入れられるようになったが,これまで紙ベースだった新聞・雑誌・本もデジタル化,ペーパーレス化するのだろうか。新聞に関しては,既にネットで読むスタイルが定着して,新聞を購読しない人が多くなり,新聞社が黒字を確保するのに苦労しつつある。また,頭をさほど使わない(といっては怒られるかもしれないが…)でページをめくっていくことができるマンガなどもそれなりにデジタル化は進んでいくだろう。

 一方,絵本はどうかというと,小さい子供が様々なサイズ,絵柄の絵本を自分で選んで,独特の風合いを感じたり,自分でページをめくったり,という自分で触れる感覚を直接味わい,刺激を受けることがなくなるので,絵本のデジタル化・ペーパーレス化はあまり進んで欲しくない。また専門書なども,紙に印刷した厚い本を熟読して,マーキングして,書き込んで,と自分の手を動かすという作業がなくなり勉強した気がしなくてしっくりこないように思われる。

 したがって,個人的には今後,情報の収集や絵でストーリーを追えるマンガなどは,デジタル化・ペーパーレス化が進み,思考的な作業を必要とする場合は,これまで通り,紙ベースの本が残っていくのではないか,是非残ってもらいたいと思う。

 Googleのブック検索と称した「電子図書館」への動きや各種研究論文誌の「電子ジャーナル」化から鑑みると,図書館もこのような劇的に変化する時代の流れに応じた役割を担わなければならないだろう。個人的には,図書館では実際に本に触れたり,本を探したりすることをリアルに感じたいので,これからもこれまでと同じように実体験できる,好奇心をくすぐる場として存在してもらいたいと思う。

 

「金色の石に魅せられて」

 

                            電子工学科 森宗 太一郎

 

学生の頃から乱読だったが,小説はあまり好んで読まず,雑心理学とか自然哲学,伝記などを好んで読んできた。物語というより,何か構造体を持つ内容に興味があるからである。それに自分の研究室に小説を置いていたら怒られるが,学問的な本であればそれらしく見えるので気にせず棚におけるところがよい(笑)。ここに書く依頼があったので近くの本屋に何度か足を運び,適当な小説を選んでみたがパッとしないので書くのは止めておくことにした。大体,休みの日まで出勤しなければならない程の仕事を抱えているのが実状で,この時期まともに本を選んでいる余裕すらない。現状では何を言っても若手教員の負担を減らすより仕事が遅いだけと一蹴されそうだが(笑)。

題にした本と出合ったのは大学院生の頃,22~3歳の頃である。当時所属していた研究室の主な研究対象がレーザー発振用の新素材開発で,その中でも三元系の化合物半導体に興味を持って勉強していた。応用だけでなく評価法もレーザー分光と言われる手法によって物質の中の電子の動きを調べ,より明るく光る新しい材料開発を行っていく。光の実験と言えばきれいでかっこよさそうといったイメージかもしれないが,実際は暗闇の中で見えない程の光を雑音と汗かき格闘しながら測定する。さらに地道で泥臭いのが材料作りでガラス細工をバーナーで行い,焼きなます炉や真空装置の中におかれた物質の状態を全く見えない外部で想像しながら手動で料理していく。この「作って」,「評価して」,「解析する」作業を繰り返し行いながら,「なぜこんな色で光るのか」や「なぜ変化するのか」などについて謎解きを行う。

何度か失敗をしたうえに徹夜が続き,こんな研究をして何か変わるのだろうかと立ち止っていた頃,実験すればするほど謎が増えている気がして息が詰まるような思いで逃げ出したくなったのか,大学の図書館で休んでいた。そのとき目についた本が佐藤勝昭先生著の「金色の石に魅せられて」であった。本と本の間に隠れるように誰にも借りられたことのないような本だったように思う。当時何も知らずに少し本をめくると,似通った材料の物理的現象についてのおもしろさを物語のように説いていた。その時は物理的内容よりも話の裏に想像できる苦労したであろう著者の姿に共感と尊敬することで,慰めと同時に優しく励まされている感覚があった。その後何度か読み直してみたが,内容の意味が分からないところもあったけれど,少しでも理解できるとうれしくなり勇気づけられた。

恩師の一人にはこの謎解きの旅を「神に近付いているような気がする」という言葉で表現する先生もおられる。基礎研究をしていると自然の中の科学のおもしろさにふと気が付く瞬間があり,何度か止めようとも思ったけれど困ったこと今のところ止められないでいる。先日,大学の恩師である故飯田先生の弔事の席でその著者である佐藤勝昭先生を生で拝見する機会があった。実は以外と近いところで結びついていることを師の偉大さと共に感じ,今の自分の考え方や発想が多くの師や本に影響されていることを最近なんとなく実感している。

 

指輪物語を知っていますか?

 

                             情報工学科 篠山 学

 

1940年頃にJRR・トールキンによって書かれたファンタジーです。2001年には映画化もされました。言語学者でもあるトールキンが言語まで作って書いた壮大な物語です。読めばなにかが変わります。なにせ,ぜんぜん関係のないプログラムの本に参考文献としてインスピレーションが得られると紹介されているくらい。こんな本は他にないでしょう。

私は指輪物語が大好きです。正確には,後日談やサイドストーリー、くらしているひとびとの生活などを空想するのが好きです。メイン以外の人々がどんな思いでどのように暮らしているのか,どんな慣習があるのかなどが気になります。

例えば、のろしをあげるシーン。あ、のろしって分かります?でっかいたいまつを燃やして遠くに緊急事態を知らせるための通信手段です。より遠くへ知らせるために,のろしを組み合わせることによってリレーすることもできます。そのシーンでは山の頂上(富士山の山頂のようなところ)に次々にのろしが上がっていくわけですが,当然そこにはちゃんとのろしをあげる人がいるわけです。彼らはどんな生活しているんでしょうか。

山の頂上で,いつあがるか分からないのろしをひたすら待ち続ける仕事。万が一あがったとしても,自分ののろしに火をつけるだけ。う~ん、すっごい退屈そうですね。

モチベーションが保てそうにないです。そもそもそんな仕事したくない。でも兵士なら命令でやらされているのかも。あるいは1年のろし係りを勤めたら給料があがるとか,一階級昇進できるとかあるのかも。ありますよね、でないといくら命令でもだれもしないでしょう。

隊長「おまえ,来月からのろし番な!」

兵士「え、自分でありますか!」

隊長「そうだ。カラズラス山だ」

兵士「・・・・」

隊長「返事は!?」

なんてことがありそうです。そしたらさらにお話は広がっていきます。たとえば,のろし番が決まった兵士はこれからどうするでしょうか。親しい人にこのことを伝えるに違いありません。そして長い山篭りの前に休暇を取って思う存分遊ぶのかも。いやいや,実は誰にもしゃべらないかも。それには理由があって、それは・・・。とまぁいくらでも物語は膨らんでいくわけです。

 いい本というのは、ひとつにはこういう空想を広げる余地がたくさんあることではないでしょうか。全部を書ききることはできません。人々の暮らしや習慣をどこまで書いて,どこを書かずに置いて,読者の想像にまかせるか.書きすぎると想像の余地がなくなり,書きなさすぎると薄っぺらい物語になってしまいます。指輪物語の場合は,膨大な量の記述があるにもかかわらず,ぜんぜん書ききれていませんけど。途方もない世界観を感じます。とてつもなく深い,モリアの坑道のように。ドワーフたちはあの坑道をどうやって掘ったんでしょうか。あまりに深く掘りすぎたため,悪鬼を目覚めさせてしまったわけですが,最初に目撃したドワーフはどうなったんでしょう?

そうそう,この本の最後,追補編には巻末に中つ国の年表が載っています。これには物語が終わった後の出来事まで書かれています。これがまた淡々と起こったことだけを書いてあるだけなんですが(年表なのだからあたりまえ)、面白い。めちゃくちゃ空想が広がります。何度も読みました。本編より読んでます。あーまた読みたくなってきました。実は好きなのに本を買ってないんですよね。30センチ近い分厚い本が3冊ですから,学生の私には無理でした。今なら買っちゃおうかな。その本は重いんです。重さで本がメリメリいいます。そんな本,見たことあります?あお向けに寝転がってバッと開いて読むことはお勧めできません。腕がもちません。あと本も壊れるかもしれませんね。

もしまだ読んだことがない人は是非挑戦してみてください。図書館にあります。すばらしい!ないと思ってました。しかも文庫ではなく分厚い3冊です。ハードルは高いですよ。特に最初の30ページは飛ばしたほうがいいかもしれません。私は初めて読んだときここで力尽きました。ええ、一度挫折してます。読んだ人は私の部屋に読めたよーといいにきてくれると喜びます。これを読んでひとりでも多くの人が指輪物語を読んでくれることを願いつつ。