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著名人リスト Who's Who

 

 

ある日突然,海外よりメールが届いた.
そこには,
「おめでとうございます,あなたは著名人に選ばれました」
と見出しに大きく書かれてあった。


興味をそそられ後を読むと,
「あなたは大きな研究業績を上げたので,著名人リスト(Who’s Who)にその功績が掲載されます」
と書かれてあった。世界中で選ばれた2万人がリストに掲載され,それは冊子とされて世界中の大きな図書館に保存される,というではないか。
なんという名誉なことだろう。
私の書いた論文が認められたのだろうか?
私の出願した特許が認められたのだろうか?
よくわからないが,見る人は,ちゃんと見ているものだ。
リストに掲載される前に審査があるというので,審査に落ちないように慎重に履歴書と研究業績を書いて提出した。

しばらくするとメールが届いた。
「おめでとうございます.掲載が決まりました」
そしてそのメッセージの後に,
「著名人の冊子を特別価格で販売します.通常7万円のところ,今なら4万円で購入できます」
と書かれてあった.
特別価格でも随分高いと感じたが,このようなことは人生に一度きりかもしれない。
名誉はお金には変えられないと思い,思い切って買った。
家族らより,無駄遣いするなとブーイングを受けた。

しばらくするとメールが届いた。
「あなたのために賞状を作ったので買いませんか」
というものであった。
わざわざ私のために賞状を作ってくれたのだ。
賞状の方が本よりも他の人の目につきやすく,自慢できるので迷わず買った。
1万円であった。
家族よりかなりブーイングが出た。

しばらくするとメールが届いた。
「あなたのためにトロフィーを用意しました」
それは,ガラス製の立派なトロフィーであった。
それも欲しかったが,家族らより猛反対を受けて買わせてもらえなかった。

先日,またメールが届いた。
今年も著名人に選ばれたので新しい履歴書を送って欲しいとのことであった。
不思議なことに,海外の知らない会社より著名人に選ばれたので履歴書を送って欲しいとのメールがやたらと届くようになった。
最近の私は研究成果を上げているので,ほうぼうより著名人として認められているのだろう。
忙しいがまた履歴書を書かなければいけない。
有名人は大変である。

2015年11月01日

新米教師奮闘記


 私は教壇に立つ前は一般企業で電子機器を設計するエンジニアだった。世界一の製品を作りたくて、電子回路の勉強に夢中になり、数十種類もの製品を送り出した。しかし42歳の時、これまでの経験と知識を社会貢献のために役立てたい、物づくりの楽しさを伝えたいとの思いから香川(旧高松)高専の教員となった。私は、これまで教壇で教えた経験がなかったので、授業初日の前夜は「うまく教えることができるだろうか。学生は私の話を聞いてくれるだろうか」と心配でよく眠れなかった。


 初めての授業では緊張しながら話したものの、学生は私の心配をよそに静かに話を聞いてくれたので、淡々と授業を進めることがきた。「なんだ、上手くできるじゃないか」と早計にも思ってしまい、妻には「自分は教えるのが上手いのだ。教師として素質があるに違いない」などと誇らしげに授業の様子を報告した。ところが、数回目ぐらいから、板書していると後ろでざわざわ雑談の声が聞こえる。後ろを振り返ってキッと睨みつけて静かにさせる。しばらくするとまたざわつくので再びキッと睨みつける。次第に睨みつけの効果はなくなり、睨みつけると逆に学生より睨み返されて、こちらがシュンとなる始末であった。やけに静かになったと思えば、イヤフォンで音楽を聴いているではないか。注意して取り上げようとすると、その学生は椅子に踏ん反り返って周りを指差す。辺りを見ると大勢の学生がポータブルゲームに夢中になっているのであった。学生の横暴ぶりはさらにエスカレートする。トイレに出て行っては戻ってこない。授業中にジュースを飲み、ガムを食べて、悪びれた様子もなく大声で雑談する。夏休み前ごろになると、多くの学生が机に伏せて気持ち良さそうに寝ていた。ひどいのでは、椅子を並べてベッドにして寝ている学生がいた。これは注意せねばならないと思い、揺すって起こすと「何で起こすんや」とすごい剣幕で怒ってきた。思わず「ごめん」と謝ってしまったが、すぐ我に返り再び注意すると「こんな授業聞けるか」と大声で叫ばれ、私の頭の中は真っ白、泣きそうになりながら授業を続けた。このように私は授業の度に敗北感を味わい、肩を落として教室を後にした。


 授業がだめならせめて生活指導で頑張ろうと、廊下ですれちがう学生に「おはようございます」と元気に声をかける。学生は「・・・」。私は、肩書きは教師であっても学生にとってうっとうしい存在でしかないのかと思うと寂しさを感じた。
学生との信頼関係ができないのは、私の授業が下手だからだと思った。学生は授業で自分が成長できたことを実感することで、教師に感謝し、この人は自分の師であると認めるのである。なんとか授業がうまくなりたいと思い、本で授業技術を学び、他の先生の授業を見て学び、また学生よりアンケートを行って自分の悪い点を書いてもらった。自分の足りない点を指摘され、それを認めるのは心苦しいものであるが、とにかく指摘された点を毎回の授業の中で改善し、効果を確かめていった。


 今年で教師3年目となる。努力の成果であろうか、以前より少しは授業に参加する学生が増えてきた。私の挨拶にも「ああ、おはよう」とタメ口ではあるが返事が返ってくるようになってきた。授業をうまく行なうには長年の熟練された経験と知識と技術が必要であり、私の授業はまだ満足できる状態ではない。ただ教師である限り、授業改善の努力は続けていこうと思う。教師は、授業で学生の大切な時間を預かるのであるから少しでも意味のある時間、成長できる時間にしてやりたい。そして私の授業、また香川高専のカリキュラムを通して、学生が世の中に役立つエンジニアに育って欲しいと願っている。


2009年 私の転機より

2018年09月10日

ビギナーズラック

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突然,高専機構より一通のメールが届いた。一読すると,先日提出した高専教育の論文に,何か問題があったようだ。

高専では,教育方法や実践結果を「高専教育」という論文にまとめて報告するシステムがある。
高専では教育論文も一つの論文として認められるため,それを書くのは教育方法を広めるだけでなく,教員の実績を作るためにも重要となっている。
今年,私は担当している回路設計の実習内容をまとめて提出した。
先日,その論文の採録が決まり,胸をなで下ろしていたところだった。

メールを一読した時は,論文内容にクレームが付き,リジェクト(取り下げ)されたのかと焦ったが,よく内容を読んでみると,私の書いた論文が優秀賞に選ばれたので授賞式に来てほしいというものであった。
あまりにも突然の朗報に喜んで良いものか戸惑ったが,校長先生よりお祝いのメッセージをいただき,これは名誉ある賞であると確信した。
 
私の50年の人生の中で賞などもらったことがなく,初めての経験であった。
早速その晩家族に自慢したが,子供らは無反応,妻は「そう」と軽く受け流すだけであった。
この感動を分かち合える相手が欲しくて,周囲の先生に話した。
「すごいじゃないですか」,「さすがですね」
という賞賛の言葉を期待していたが,返ってきた返事は,
「ビギナーズラックですね」
であった。
(単なる運とは失礼な!)
実力を認めてもらえないことに憤慨した。
こうなったら,もう一度賞を取って実力を認めさせようと思い,翌年は論文を3つ書いた。
どれも力を入れて書き,なかなかの出来栄えであった。
3つとも受賞したら,みんなに妬まれるのではないかと心配した。
しかしそんな心配は不要で,受賞の連絡は待てども来なかった。
査読者によっては,論文の価値が分からないこともあるだろうと思い,次の年も,そのまた次の年も再度賞を夢見て書き続けた。
しかし結果は,なしのつぶてであった。

そうこうしているうちに「高専教育」の論文を提出するシステムは,廃止になってしまった。
こして私の受賞は,ビギナーズラックである,と結論付けられたのであった。
今は,次のビギナーズラックを目指し,あれこれ模索している。

2016年01月01日

ダメ学生が高専の教員になれたわけ


私の卒業した大学は有名大学ではありません。しかも大学の授業に興味が持てなかった私は、卒業時の席次が153人中150番で、ぎりぎり卒業した状態です。そんな私が、今高専の教員をしているのは「好きこそ物の上手なれ」の一言に尽きると思います。

●新入社員時代
私の社会人のスタートは、サンバードオート電機というカーアクセサリを扱う中小企業でした。熱い倉庫の中,トラックで運ばれたコンテナの荷物を汗だくになりながら下ろし、それを梱包して出荷する毎日でした。一流企業で働く友人は,冷暖房の入った部屋で悠々と研修を受けながら高い給料をもらっており、羨ましく思ったものでした。幸いにも職場には、以前働いていたエンジニアが使っていたオシロスコープとたくさんの電子部品がありました。仕事が終わってからはそれらを自由に使って何かを作ることができたため、電子工作が好きであった私は、本を見ながら毎日何かを作り続けました。ある日、完成した作品が社長に認められ、製品開発をやらしてもらえるようになりました。それからは毎日朝からAM1:00ごろまで、土日も出勤して製品を一人で開発し続けました。残業手当など一切出ませんでしたが、(世界一の製品を世の中に出したい)この一心より次々と製品を作って行きました。素人が作った製品は、信頼性もなく多くのクレームを出し、会社も私も大変な目に遭いました。しかしその失敗が後の設計に活かされることになり、回路設計者として相当の実力を付けたと思います。

●転職
仕事が一通りできるようになると新しい技術を身につけたくなります。魅力ある仕事をさせてくれる会社が現れる度に,何度も職場を変えました。技術者にとって転職は,新しい技術を身に着けるのに絶好の機会となります。どんな会社でも独自のすばらしい技術を持っており,それを周囲に公開することはありません。会社に入りそこで働くと,それらの技術を一度にまとめて習得することができます。転職先がどんな会社であるかは,入ってみないと分からないところがり、転職のリスクは大きいと思います。ただ失う物が特になかった私には,リスクもそれほど怖く感じませんでした。

●社会人学生
40歳の時に社会人学生として大学院に入学しました。20年近く回路設計をしてきて、どうしても理解できない疑問点がいくつもあり、それらを解決したいとの思いがありました。また、よこしまな動機としては、学位がもらえるという点でした。大学院は、修士課程を終えれば「修士」、博士課程を終えて論文が認められると「博士」の学位がもらえます。「博士」、なんてカッコイイ称号でしょう。長年回路を学び続けてきた私にとって、学位はこれまでの頑張りをねぎらう勲章のようで魅力的でした。在学中は、北澤敏秀先生、(故)西川敏夫先生、(故)脇野喜久男先生の3人の先生に支えられたおかげで、通常3年かかる博士課程を1年半で終えることができました。大学院は、人生最大の冒険であったと共に、最大の幸運に恵まれた時だったと思います。

●教員の応募
(ものづくりの楽しさを学生に伝えたい)との思いより教員の応募をしました。高専や大学の教員の応募は「博士」の学位を取得するとできます。ただ研究実績がほとんどない普通のサラリーマンである私が、優秀な方々を押しのけて教員になれるのだろうか?との疑問はありましたが、だめでもともとのつもりで応募しました。大学は論文の数が大きな評価対象となるため、いくら応募しても落とされました。しかし高専はものづくり教育を重視するため、実務能力が評価されます。豊富な実務経験を持っていたおかげで、私は高専の教員に採用されました。サラリーマン時代は会社の利益のために働かなければならず、働く意味を見出すのに悩む日々が続きましたが、今は違います。教員という仕事は大変ではありますが、自分の技術や経験が若い人たちに受け継がれていくのを見ることができ、やりがいを感じます。

●好きこそものの上手なれ
このような名誉ある仕事に就けたのも、電子工作が好きで夢中になってやり続けたおかげだと思います。好きだからこそ続けることができ、やり続けるからこそプロフェッショナルになれるのだと思います。不遇な環境に嘆くのではなく、夢を持ってそれに向かっていくことは大切だと思います。夢は,誰でも必ずかなうわけではありません。しかしそれを追い求めない限りその道は開けません。そもそも結果はあまり気にしなくて良いのかもしれません。その道を求めて行く過程が楽しく、好きでやっているのですから。

2014年 トランジスタ技術増刊 RFワールドNo28 より抜粋 

2018年09月10日