新米教師奮闘記


 私は教壇に立つ前は一般企業で電子機器を設計するエンジニアだった。世界一の製品を作りたくて、電子回路の勉強に夢中になり、数十種類もの製品を送り出した。しかし42歳の時、これまでの経験と知識を社会貢献のために役立てたい、物づくりの楽しさを伝えたいとの思いから香川(旧高松)高専の教員となった。私は、これまで教壇で教えた経験がなかったので、授業初日の前夜は「うまく教えることができるだろうか。学生は私の話を聞いてくれるだろうか」と心配でよく眠れなかった。


 初めての授業では緊張しながら話したものの、学生は私の心配をよそに静かに話を聞いてくれたので、淡々と授業を進めることがきた。「なんだ、上手くできるじゃないか」と早計にも思ってしまい、妻には「自分は教えるのが上手いのだ。教師として素質があるに違いない」などと誇らしげに授業の様子を報告した。ところが、数回目ぐらいから、板書していると後ろでざわざわ雑談の声が聞こえる。後ろを振り返ってキッと睨みつけて静かにさせる。しばらくするとまたざわつくので再びキッと睨みつける。次第に睨みつけの効果はなくなり、睨みつけると逆に学生より睨み返されて、こちらがシュンとなる始末であった。やけに静かになったと思えば、イヤフォンで音楽を聴いているではないか。注意して取り上げようとすると、その学生は椅子に踏ん反り返って周りを指差す。辺りを見ると大勢の学生がポータブルゲームに夢中になっているのであった。学生の横暴ぶりはさらにエスカレートする。トイレに出て行っては戻ってこない。授業中にジュースを飲み、ガムを食べて、悪びれた様子もなく大声で雑談する。夏休み前ごろになると、多くの学生が机に伏せて気持ち良さそうに寝ていた。ひどいのでは、椅子を並べてベッドにして寝ている学生がいた。これは注意せねばならないと思い、揺すって起こすと「何で起こすんや」とすごい剣幕で怒ってきた。思わず「ごめん」と謝ってしまったが、すぐ我に返り再び注意すると「こんな授業聞けるか」と大声で叫ばれ、私の頭の中は真っ白、泣きそうになりながら授業を続けた。このように私は授業の度に敗北感を味わい、肩を落として教室を後にした。


 授業がだめならせめて生活指導で頑張ろうと、廊下ですれちがう学生に「おはようございます」と元気に声をかける。学生は「・・・」。私は、肩書きは教師であっても学生にとってうっとうしい存在でしかないのかと思うと寂しさを感じた。
学生との信頼関係ができないのは、私の授業が下手だからだと思った。学生は授業で自分が成長できたことを実感することで、教師に感謝し、この人は自分の師であると認めるのである。なんとか授業がうまくなりたいと思い、本で授業技術を学び、他の先生の授業を見て学び、また学生よりアンケートを行って自分の悪い点を書いてもらった。自分の足りない点を指摘され、それを認めるのは心苦しいものであるが、とにかく指摘された点を毎回の授業の中で改善し、効果を確かめていった。


 今年で教師3年目となる。努力の成果であろうか、以前より少しは授業に参加する学生が増えてきた。私の挨拶にも「ああ、おはよう」とタメ口ではあるが返事が返ってくるようになってきた。授業をうまく行なうには長年の熟練された経験と知識と技術が必要であり、私の授業はまだ満足できる状態ではない。ただ教師である限り、授業改善の努力は続けていこうと思う。教師は、授業で学生の大切な時間を預かるのであるから少しでも意味のある時間、成長できる時間にしてやりたい。そして私の授業、また香川高専のカリキュラムを通して、学生が世の中に役立つエンジニアに育って欲しいと願っている。


2009年 私の転機より

2018年09月10日